三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

寺尾紗穂って言うんか

 荻窪の書店「Title」で流してる歌の曲名を知りたくて、店内でShazamしてみた。「私の怪物」Saho Terao…寺尾紗穂だってさ。知らーん。にしても、こういうことが可能だってことそれ自体が驚異である。
 寺尾紗穂の音楽をようつべで聞き、wikiって背景ちうか「背後関係」も知る。反原発サヨクおばちゃん(すっぴん)、というだけじゃまとめられないパワーがある。「われわれは人を踏んづけて生きている」というのは単なる事実であるが、それをちゃんと自覚しとけ、ということだね。関内関外が言う「もっと人殺しの顔をしろ」というのと同じ。映像はどれも美しい。現在日本で自分自身が漫然と眺めている風景の美しさをそのまま再現してるかのように錯覚する。爺二人の「拳法」?が不気味だが。

 いやしかし「この方法論はあったな」と思う。プロパガンダは逆効果なのだ。ささやくように、つぶやくように、日常の言葉に「イデオロギー」を乗せるから、無学で粗野な民百姓の魂にまで沁み渡る。戦前以来の「左翼演劇」がやってきたのもそういうこと。吉永小百合はその尻尾。「デュープス」なんてディスっても逆効果。
 停電すると困るし、電気代が倍になるのも困るので、現場がブラックでも何でも、安く電気作ってちゃんと送ってね、というのが「人殺しの顔」で言えるせいぜいなのだが。
 もっと極端な例をあげとこう。「家畜の人権」が認められたら、俺らは全員「ナチス以下」と断罪される。現在日本の場合は「ヒトの受精卵→胚の人権」が認められた瞬間にそうなる。誠実に生きようとするならば「人殺しの顔」になるのが必定。それをサボってカマトト決め込む手合いが圧倒的多数なのだが、そいつらの「意見」は無視していい。つか、そこまでの気配りは出来んでしょ、「人殺しの顔」をしてたら当然のこと。

 だけど、寺尾紗穂の歌は妙に心に沁みる。ずっと聞いていたい気持ちにさせられる。もっとちゃんと「人殺しの顔」で歌ってるからなのか? つか、あの、のっぺりと白い一重まぶたの顔こそが「人殺しの顔」なのかも。

 

たよりないもののために

たよりないもののために