三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

今こそ読むべき「48億の妄想」

 一家6人がリビングでテレビを観ている。「日韓漁業問題」が報道される。外国の戦場からの中継映像で、捕虜のゲリラ兵が拷問され、斬首される。一人息子を事故で失った母親が泣いている。ニュースそれぞれの「演出」の良し悪しを家族は評論する。拷問の痛さが今ひとつ伝わってこない、とか、母親に対するレポーターのツッコミが甘い、とか。出来が悪いのでテレビ局に投書しよう、と言う。そのリビングに飲酒居眠り運転の暴走ダンプが突っ込んできて、一家はテレビの「視聴者」から「ネタ」へとクラスチェンジする。

 そんな導入部で始まる「48億の妄想」は、1965年に発表された筒井康隆の処女長編だ。国会審議から刑事民事の裁判から、すべてがテレビ的に演出される。あらゆるところにテレビカメラが仕掛けられ、人々はカメラを意識して、日常を「演技」する。本物の「事件」とテレビが創り出す「疑似イベント」が渾然一体となった世界を、とことん露悪的に描いていく。

 モーニングショーが情弱高齢者を扇動し、ユーチューバーがもてはやされる。そして「リアリティー番組」に出ていた若い女子レスラーが、視聴者からバッシングを受けて自殺し、続いて番組がバッシングされる現在日本。その「現在」をそのまま予見したかのごとき小説である。

 現在も続く「竹島問題」。その「解決」のために、日韓のテレビ局が「疑似イベント」としての「戦争」を企画し、実行する後半は、さらに凄まじい展開を見せる。

 今こそ、読み返されるべき作品だと思う。

 

48億の妄想 (文春文庫)

48億の妄想 (文春文庫)