三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「皆でがんばって自粛」?

 ネットその他、あちらこちらで目につく発言。「皆でがんばって自粛しましょう」 最初に見た時から、何とも言えない違和感があった。それがどういうことなのか、ようやっと自分の言葉で説明できるようになったので、書いておく。

 自粛というのは「自ら身をひきしめる」という意味。今回の政府の意図をくみ取って翻訳すれば「自主的に社会的経済的活動を抑制する」ということだろう。政府から個々の国民に要請していること。個々の国民それぞれで意味するところが異なる。この2点がポイント。

 だから、例えば「老齢年金暮らしの高齢者」だったら単に「外出を控える」かもしれない。「会社員」だったら「通勤日を減らしてテレワークで代替する」かもしれない。「居酒屋経営者」だったら「しばらく休店する。営業時間を短縮する」かもしれない。それぞれのケースで当事者にとっての負担や金銭的損害が異なるのは当然のこと。

 上記「高齢者」にとっては、せいぜい「気晴らしできない」程度で金銭負担はゼロ。「会社員」の場合は会社がテレワーク用の機材を負担するし、当人は残業代が稼げなくなって収入が減るかもしれない。そして「居酒屋経営者」にとっては売り上げが減って多大な損害が発生する。

 これだけ事情が違っている「自粛」を「皆でがんばって」と、一言でまとめてしまう神経がおかしい。そもそも「皆」って誰と誰と誰で、それに対して「しましょう」とリーダーシップを発揮する、あなた様は何様ですか? 「がんばって」も意味不明だよな。1円も収入が減らず、それどころか濡れ手に粟の10万円が貰える高齢者が「外出を控える」のと、売り上げ激減の「居酒屋経営者」が当面の金策に走りまわるのと、等しく「がんばって」ですか?

 せいぜい言えるのは「わたしは自粛しています」という程度だろう。「別に収入は減ってませんし」と正直に書くかもしれないし、「店の家賃代だけで月200万ずつ消耗してます」かもしれない。それを読んで「おいらも同じだ」と共感するかもしれないし、「それは大変だ」と同情するかもしれない。「ああ、がんばってるな」と思うかもしれないし、思わないかもしれない。それが国民個々の実情であり、そのトータルが現実。

 そこまで考えれば「皆でがんばって自粛しましょう」という物言いが、いかに一方的で一面的で独善的であるか分かるだろう。当然「同調圧力」が暗に込められている。

 だから「皆でがんばって自粛しましょう」という手合いの一部は、「がんばらない不心得者は粛清しましょう」と先鋭化しているわけだ。同じく「粛」を使った言葉で言うならば。

 思いあまった「居酒屋経営者」が店を開けたら「自粛警察」が粛清活動を開始する。「緊急事態宣言はまだ解除されていませんよ。自粛を継続して下さい」と匿名で電凸したり、店のシャッターに「バカ」「店閉めろ」「警察呼ぶぞ」と嫌がらせの貼り紙したり。

 そこまで行くと、困ったものだ、じゃすまないレベル。日本社会に対する害毒に他ならないのだが、やってる当人は「正義」と思ってる。確信犯であるのが救いがたい。