三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

カップヌードル

 12時ちょい前に昼食は「カップヌードルカレー」。このジャンクフードは、社畜時代にさんざん食った。安くて簡便。職場の一人飯にはぴったりだった。これにおにぎり1個で十分。今日は玄米ご飯投入であるな。

 うむ。やっぱこれだ。ちょっと前に別ブランドのカップカレー麺を食ったが、偽物感が拭えなかった。日清の「純正」が正しい。

 どうせジャンクなら、簡便な方がいい。熱湯3分でオケー。別に「悪いもの」が入ってる訳じゃなく、これ自体が「わるい食べもの」(千早茜)なだけだし。

 ふと思い出したが、学生時代の友達だったSがカップヌードルを偏愛していて、その理由が「ラーメンの模倣ではない、カップヌードルという新しいオリジナルな食物だから」というものだった。「スープの袋を切って混ぜたりの手間が一切不要で、単にお湯を注ぐだけというのもいい」とも。当時の自分は高級路線の「本中華」だったか「マダム楊」だったかの方が「上」だと思っていた。Sは都会人で、対する自分は、とことん田舎者だったわけだ。

「駅入場無料化」ができない理由

 JRの改札システムを変えて、SUICAその他の交通系カードで駅構内に入場できるようにするとのニュースを聞いて、当然「無料化」だろと思ったら、しっかり入場券分課金すんだってさ。

 なぜ「無料化」しないかといえば、できない理由があるからなんだろう。昔ながらの、駅構内と外を改札で物理的に区切って、鉄道の利用者のみを構内に入れる、というシステム。切符を持ってない人間は構内に入れない。無賃乗車を防ぐのに加えて、利用者以外が入り込むと事故や犯罪が発生する可能性がある、とか。入場券制度はその例外的措置である、と。

 でもSUICAを使えば切符同様に利用者の出入りをコントロール可能だ。そしてSUICAなら「無料の切符」を発行するのは簡単。

 ここで「駅入場無料化」という可能性が浮上する。それを妨害するのは「そもそも」論。「そもそも開業以来入場券を買ってもらっている」という現状バイアス。「入場料収入が減る」とのケチくさい理由。もちろん「無用の人間に入り込まれたくない」との保安上の理由も。

 駅構内と外を改札で区切るというシステムは、日本独特のもの。多くの外国では出入り自由だし、その気になれば切符無しで列車内にも入れる。無賃乗車を防ぐのは車内の検札。どちらのシステムが良いのかは「判断」だが、改札なしのシステムの方が、事故や犯罪が多発するという事実は無かろうと推察する。もしも多発するなら、大多数の国が日本式を取り入れているだろう。

 で、結論としては「駅入場無料化」が実現できないのは、鉄道会社の頭が固いから。結果として、エキナカ商売の伸び幅は限定される。

 ああそうか、周辺商業施設が反対する、というのもあるか。エキナカにお客さんを取られちゃう、と。ひとたびこういう発想に傾いたエリアの商業的発展は頭打ちとなる。スーパーの出店に反対した商店街の客足全体が減少して、町が衰亡するなんて例は腐るほどあった。エキナカが繁盛するなら、外のお客さんも増えるだろう、というWinWinを追求してこそ、駅前も発展するだろうに。

田舎っ子は勉強第一

 で、そんな田舎に生まれついた不幸なこどもらは、とにもかくにも必死こいて勉強しろ。町の、都市の、大都市の学校へ進学して、そのまま田舎と縁を切れ。でないと一度きりの貴重な人生を軽く棒に振る。

 勉強せにゃならんのは都会の子も一緒だが、結果が違う。都会には、秀才エリートにも、落ちこぼれ落伍者にも、それぞれの居場所がある。「都会は勇者にも卑怯者にも優しい」(曽野綾子

 下町と山の手、板橋・赤羽と港区の格差は当然あるが、同じ町内にもさまざまな階層の人間が住んでいる。下級国民だらけの板橋弥生町に「元院長」なる上級国民が住んでいるように。隣り合って住んでいても、階層が違えば交流はないし、互いに気にしない。

「うち」だってそうだな。もう四半世紀のお付き合いのマンションのお隣りさんでも、何やってる(た)人かまったく知らない。

 田舎は違う。全員知り合い。村八分をドス黒い暗部とした同調圧力がハンパない。そこには秀才エリートの居場所はない。預言者は故郷じゃ受け入れられない、的な? 違うか(笑)

 田舎にゃ居酒屋が1軒しか無いわけだ。比喩として。そこで上級下級がかち合ったら、お互いに楽しく飲めませんよ。で、必然的に、多数派である下級が残る。少数の上級は田舎を去るわけさね。

田舎ベンチャーの蹉跌

 ベンチャービジネスというのは、要は先駆者の利益追求なのだが、これは田舎じゃ不可能。地場産の何かを活用した独創的な商品がヒットすれば、すぐに模倣される。抗議すれば、不買運動の標的になる。市場から閉め出される。原材料供給を断たれる。よそ者(それも成功しやがった!)排除が目的なら、地元は一致団結だ(笑) さらに行政が手を出してきて、ビジネスを丸ごと乗っ取ったりすることさえある。

 先駆者はアホらしくなって廃業して別の土地へ行く。残った連中はそもそもイノベーションとは無縁だから、ビジネスは先細り、やがて滅びる。残るのは残骸、廃墟、そして「やっぱりこの土地はダメ」という安心感(笑)

 そういうことが常態化してるから、新しいモノなど何一つ生み出せず、衰退が必然となる。つか、例外的にそういうことをしなかった田舎が、繁栄し、町にクラスチェンジして、都市、さらに大都市へと発展していったのだろう。東京にしたところで、例えば寂れ商店街だけを切り出せば、十分に閉鎖的で、田舎とまったく変わらない。

 つまるところ、衰退した田舎は、衰退こそが必然。税金をつぎ込むのは無駄。単なる貧乏人を、貧乏を飯の種にする「プロの貧乏人」にするだけ。そんな田舎に移住してビジネスやろうなんて手合いは、聖人か馬鹿か、馬鹿な聖人か、どれかでしかない。

皿うどんの謎

 今日の謎ニュースの筆頭は

「朝霞の小学校の給食の皿うどんが固くて児童6名と教諭1名の歯が欠けた事故」

 給食調理員が、3分揚げる設定の麺を10分揚げて固くしすぎたせい、というが、そもそも皿うどんって、固い麺を、おせんべみたいにバリバリ齧る料理じゃないだろ。餡の水分で柔らかくして食うもんだよね? それとも皿ごと齧ったのか(笑)

皿うどんの麺を揚げすぎて、固くて歯が欠けるって、よくあることなんですか?」

 と、本場長崎の人に訊いてみたい。

田舎ビジネスの難しさ

 先日、ジュンクで立ち読んだ新書に「町おこしなんて無理」的なものがあった。パラ見したら、よそ者が田舎でビジネスやる困難について書いてた。成功すると、地元を「搾取」した結果だ、と疎んじられるんだと。失敗したら、やっぱ難しいよねえ、と冷笑されるのだが、成功するよりはずっと当たりが柔らかい。

 つまり、こういうことなのだ。田舎者が大したビジネスができずに貧乏でいるのは、土地柄でしょうがないから。彼自身がダメだからじゃない、と思いこんでる。ところが、よそ者が成功すると幻想が砕かれる。ダメなのは土地じゃなく自分であるという現実を突きつけられる。また、地元自治体から補助金もらってほそぼそとビジネスしてる手合いは、成功したよそ者に横取りされる、という恐怖もある。行政としても、貴重な税金を遣うなら、費用対効果が高いところにつぎ込むだろうから、と。

 まっこと田舎は恐ろしい。住むだけでも厳しいのに、ビジネスやるとなれば煉獄の道を歩かされる。まあ、そういう偏狭な土地柄であればこそ、前途有望な若者は居つかないし、稼げる才覚のある者はワンチャンで去っていく。残ったのはカスばかりで、抜け駆けする奴がいないかと相互監視し続けている。

 東京だっていわば「巨大な田舎」で、都民全員田舎者なのだが、規模が巨大すぎて、他人の成功失敗にイチイチ目を止めてらんない。結果として「魂の自由」(曽野綾子)が実現されている。

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「エロス資産」再考

「エロス資産」について再度考えてみる。女性一般が、おそらくは絶対に認めたくない概念だということを。

 自身の年齢とは別に男性一般が「若い女はいい」(柳沢きみお)なのは、身も蓋もない事実。例外はいくらでも拾えるが、全体としては圧倒的にそう。要は「妊娠可能」と「それ以外」に女を大別し、前者を求めるということで、生物学的に、進化論的に理にかなっている。でもそれが「男の好み」なら「男って馬鹿だよねー」で済むこと。すべては男の責任。

 そこに「エロス資産」なる概念を持ち込むと、資産の持ち主であるところの女の管理責任が浮上する。「エロス資産」を武器にして有利に世渡りしてるんじゃないか、とか、「エロス資産」を別の資産に換えてるんじゃないか、とか。

 そして「エロス資産」をどのように活用しようが、あるいは活用しまいが、「資産」はおよそ35歳で消滅してしまう、ということ。すなわち、アラフォーより上の女性は「エロス破産者」であるということ。

 これがすなわち「若い女はいい」(柳沢きみお)の本質なのだが、そこから導かれるのは「男は馬鹿」じゃなく「男は賢い」という結論。「破産」よか「資産」を選択するのは、これはもう当然でしょう。で、上記の「女性一般が認めたくない概念」となるわけだ。これもまた当然。