三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

昼食の幸福

 板橋の四川系町中華の名店「陳嗎家」で看板メニューの陳麻飯720円を食す。これが、お金と幸福の関係を象徴している。

 昼食に720円という金を出せず、1食74円の袋ラーメン(例えば「アイリスオーヤマ 豪麺醤油味」30食2224円。amazon調べ)で10日間昼飯を賄えねばならないとしたら不幸。これは分かりやすい。

 じゃあ、裕福な友人に誘われて、とあるフレンチ・レストラン(例えば「銀座レカン」)で、8000円のランチを食うはめになったら? それも友人の奢りで。これも自分には不幸。そもそもそんなもん食いたくないから。

 で、付き合いでしょうがなく食ったとしたら、以下の2ケースが想定できる。

 ケースA。美味しくない。何でまた、こんなレベルの料理にこんな高い金とるんだ?と腹が立つ。

 ケースB。旨い。何でまた、昼間っから大枚はたいて旨いもん食って贅沢してる連中がいるんだ?と腹が立つ。

 どちらにしても腹が立つので、食事が楽しくない。すなわち不幸。

 自分が食いたいものを、自腹切って食えるのが、何にも増しての幸福。「不正」を感じると不幸になる。暴利(に決まっとる!)を貪るレストランの不正。悪銭(に決まっとる!)稼いで浮き世離れした贅沢をする富裕層の不正。要は「正しい」と感じれば幸福、「間違ってる」と感じると不幸になるわけだ。

本は買わなきゃダメ

 情報機器代や教養費を締めることにより、教養を狭めてないか? 最新鋭のスマホなんざ不要だが、本代をケチってるとしたら問題だ。amazonのunlimitedやブクオフ110円コーナーに淫してないか?

 本は、積極的に読もうとしなきゃ全然読めないもの。買っても積ん読なら意味がない。今すぐ読みたいものを、ちゃんと買って読むのが「本道」だろう。本だけに(笑) これをサボったら、教養のメンテナンスとアップデートが滞り、「ダメ」になっていく。田舎の実家の、元国語教師で読書家だった母親の本棚が、いつの間にか年単位で変わらなくなってたり、理工系一筋だった父親の本棚はさらに酷く、何十年も前の技術書や学会誌だけになってたり。

 金の遣い方について、ちと反省が必要と分かった。切り詰めるところはとことん切り詰める。緩めるところは緩める。武漢肺炎のせいで、なかなか帰省できない、こども関係の消費は、嫁さんの精神的安定に不可欠だし。

 で、教養費は削っちゃダメ。特に本とまんが。「読み切れないほど買う」のが正解。そんでもせいぜい月数万円かそこら。まんがが平均700円なら2万円で28冊だ。そのくらいの消費をしないと「実家の本棚」になってしまう。本棚の停滞がすなわち精神の停滞。

エイプリルフール

 古典とも言える名作はエゲレスBBCの「スパゲッティの木」だろう。今ならyoutubeで観れる。

BBC: Spaghetti-Harvest in Ticino - YouTube

 個人的に感心したのは、もう10年以上前に、とあるお医者さんがやっていたブログで読んだもので「幼稚園を認知園と言い換えることになった」というもの。「幼稚というのは、未熟な人間を見下す侮蔑表現であり、こどもを育てる施設にふさわしくない。認知力において、発展途上の人間という意味で、認知園と改称することになった」と。

 これは本気で信じてしまい、嫁さんに「文科省って馬鹿の集まりか?」と愚痴ってしまった。お恥ずかしい限りである。

のり子に「ばかものよ」と言われたい

 茨木のり子は、いい。

「わたしが一番きれいだったとき」の一番きれい=最大エロス資産。エロス資産を最も美しい言葉で歌い上げた詩だ。「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」は、サヨのくせにウヨの神聖不可侵な価値観=特攻隊を横からさらってる。で、「ブラウスの袖をまくり卑屈な町をのし歩いた」のアプレゲールから、「だから決めた できれば長生きすることに」との結論はすばらしい。「女」にとっての戦後日本を完全に総括している。

 それこそが「嘘」なんだけどね。エロス資産に見合うだけの「男」は皆死んでしまった。残ったのは卑屈な下賤で、それを見下して、町をのし歩き、ジャズにくらくらした、と。要はパンパンの価値観。でも、のり子自身はパンパンじゃない。「敗戦国」を軽蔑し、生き残った男を軽蔑し、長生きする、と。

 そんなのり子とは別に、戦後日本を立て直した男たちがいる。ともに働いた女たちも。彼らを、のり子はどう歌ったのか? 歌わんでしょう。歌えんでしょう。のり子の詩は、そういうもの。だからこそ、価値がある。キラキラと光り、若者を魅了する、サヨの武器としての価値が。

 星を見て「地上の宝石を欲しがらない」とか、さくらを観て「死こそ常態」とか、こういう分かりやすい薄っぺらさこそが、茨木のり子の持ち味なのだろう。で、寺山修司ほどは薄くないところが味噌。そんでも「ばかものよ」はキッチリと心の琴線を震わせるわけだよ。「美少女委員長」に断言されたように。

SPA!

 久びさに読んだ「SPA!」に思うこと。貧乏くさい。週刊現代&ポスト読者の課題は「老い」と「死」だが、SPA読者は「金」。誰もが老いて死ぬが、金については千差万別。同じ30代40代でも、年収100万未満から、1000万以上まで。金の問題こそが「今ここにある格差」に直結する分、若い世代には切実である。それに「性」が「遠い日の花火」ではなく、これまた「今ここ」の問題である。「安風俗情報」が必須。これはしかし、昭和以来の週刊誌の定番で、チンコ萎びた現代&ポストが異質なのよ。

 SPA世代は「失われた◯年」に当たる。ロストジェネレーション。その大多数たる「負け組」だから、独特の荒んだ感が漂う。意識高い系で自己啓発してキャリアアップして、結婚してこども作って、人生を充実させる、というのとは真逆に、底辺or社畜労働で耳糞ほどの「お得」をコレクトし、結婚は諦めて安風俗やAVで一時の快楽を満たす。半歩踏み外せばサラ金、1歩でウシジマくんのお客様。

 こういう層こそが「収入以下で暮らす」べきなのだが、そのためには、酒、ギャンブル、風俗の3つに手を染めないのが鉄則。…自分には無理だと思う。アル中だし、ギャンブル代わりに株やってるし、風俗…に関しては若い頃から苦手だったくらいか。まあしかし、万一転生させられることにでもなったら、この3つが鬼門であると肝に銘ずべし。酒飲む代わりに筋肉を鍛え、本を読むわけだ。別に「意識高い」必要はない。ホリエモン与沢翼にだまされて、セミナーやら「サロン」に貴重な金と時間を注ぎ込むのは愚の骨頂。例え日大卒であっても、東大卒以上の教養を身につけ、賢く堅実に生きていくことは十分可能。

 身の丈以上のことをしようとすると、収入以下じゃ暮らせない。レバレッジをかけて投資して裏目が出て破産、というのは、株だけの話じゃない。「自己投資」にしても同じこと。学生ローン抱えての海外留学が代表例か。

 でもまあ「大卒」は必要なようだ。例え日大でも。だったら、志望校ランクを思い切って切り下げ、トップ成績の優等生として、返済不要の奨学金をゲットする、なんて裏道もあるかも。早慶の底辺より、日大、帝京のトップの方が学生生活を安く上げて、就職も有利だったりせんか。

 で、若い頃の貧乏は、人生の「宝」なんじゃないかと思ってる。自分にとっての「◯◯荘」の4年間のように。あれがもしも地方出身のブルジョア学生みたいなマンション暮らしだったなら、得るところも少なかったように思う。

トレーディングと長期投資

 分かった。まず、トレーディングと長期投資を分けて考えること。トレーディング分は売買あり。長期投資分は無し。ひたすらホールド。

 最も理想的展開は、すべてをトレーディング分として、最高値ですべてを売却し、総悲観ですべてを買い戻すこと。でも、そんなことができる自分なら、外資系証券会社のトレーダーとして、ン100億の資産を築いて50前に引退し、カリブ海のどっかで遊んで暮らし、かなりの確率で殺されてる(笑)

 最も保守的な展開は、すべてを長期投資とし、下落にも動じず、総悲観で買い増す。

 多分そうするだろうという前提で、先にデメリットを考えれば、トレーディングしてれば得られたであろう利益をロスする、ということに尽きる。最悪、元本を大きく毀損する、と。これは、自分に限っては甘受可能な損害。そもそも「丸損しても無問題の完全余裕資産」の運用だから。勝っても負けてもマネーゲーム。はっきり言って、実人生に影響するお金じゃない。

 メリットを考えれば、ホールドし続けることによる複利効果が期待できる。逆に、ピークと思って売った、その後上がって買い戻すタイミングを掴めない…ならば、その間の複利効果は失われる。1年か2年か、5年10年かもしれない。売って上がったので、慌てて買い戻したら下がって、じゃ失敗トレーディング。も一つ、税金を払わずに済むというのは、大きなメリット。利確したなら、その20%強を泥棒される。マネーゲーム的には負け。

 間をとって、単位株はトレーディング、投信系は長期投資とする。これは「もっともらしい」が、自分自身、トレードの才能は皆無であると判明済み(笑) せいぜいで「銘柄入れ替え」程度にとどめておくのが良かろう。それにしてもルールを明確に。無配転落銘柄は売る。買うのは「バフェット銘柄」に限る。それも年単位で観察し、底値を狙う。

ランドについて

「ランド」について考える。要は遊園地だろうに、別格に有り難がる連中の存在が理解に苦しむ。武漢肺炎空騒ぎ下で、入園できたの出来なかったのと笑ったり泣いたり。こどもならいざ知らず、いい大人が。

 自分にとってのEspaña旅行くらいの「価値」があるのかな、と想像してみるが、分からん。España旅行に対しても同じような冷笑が可能だとは思うが、だったら、逆にだ、日曜朝のプリキュアがリアルタイムで観れたか観れなかったかの女児の喜怒哀楽に、親は本気で共感できるか? 気持ちは分からんでもないが、幼く世間が狭すぎるが故のこと、と軽んじるだろ。

 ランドファンに対する自分の思いも基本的に同じこと。精神的に幼稚で、人格的に矮小で、趣味的に貧しい。貧しさは、経済力の問題じゃない。1億円かけておっ立てた「豪邸」の明かり取りの窓がネズミのシルエットだったりしたら、単にそれだけで、施主と親密な交際が可能だとは思えなくなる。

 で、この手の人間の特徴は、幼稚で矮小で貧しい自分自身を、恥ともなんとも思っていないこと。堂々と「ファン」であることを公言し、行動する。で、呆れられたり、批判されたりすると、とんでもなく不当な扱いを受けたと感じ、深く傷つき、恨む。あれだ、SだMさしファンと一緒。100パー善で正しいSだ(と自分)を批判する奴らは人間じゃねえ、叩っ斬ってやる、と脳がショートする。

 世の中には「幼稚な大人」というのが相当割合いて、その一番分かりやすい例が、ランドファンなのだろう。インテリにだっている。会社の先輩だったKの「巨人が負けて悔しい自分の気持ちを察して欲しい」てな。「そうですねえ」と大人の対応をしたが、内心はもちろん「死ね!」だった(笑)

 自分自身、相当に幼稚だからこそ思うのかもしれない。でも、その幼稚さを韜晦する余裕をも十分に保持しているつもりだ。

 一番分かりやすい幼稚さは、社会性、社交性の欠如。割増退職金で3年前倒して早期退職したのが一番の表れ。その後はひたすら世間を狭くして生きてきた。嫁さん方面の「社交」にも極力関わっていない。実家との関係もそう。大人の態度とはとても言えまい。

 で、Españaへの逃亡チャンスをうかがっている。ネバーランドに逃げ出そうとするピーターパンのように。そういや、そういう「シンドローム」が取り沙汰された時代もあったっけか。