三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

のり子に「ばかものよ」と言われたい

 茨木のり子は、いい。

「わたしが一番きれいだったとき」の一番きれい=最大エロス資産。エロス資産を最も美しい言葉で歌い上げた詩だ。「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」は、サヨのくせにウヨの神聖不可侵な価値観=特攻隊を横からさらってる。で、「ブラウスの袖をまくり卑屈な町をのし歩いた」のアプレゲールから、「だから決めた できれば長生きすることに」との結論はすばらしい。「女」にとっての戦後日本を完全に総括している。

 それこそが「嘘」なんだけどね。エロス資産に見合うだけの「男」は皆死んでしまった。残ったのは卑屈な下賤で、それを見下して、町をのし歩き、ジャズにくらくらした、と。要はパンパンの価値観。でも、のり子自身はパンパンじゃない。「敗戦国」を軽蔑し、生き残った男を軽蔑し、長生きする、と。

 そんなのり子とは別に、戦後日本を立て直した男たちがいる。ともに働いた女たちも。彼らを、のり子はどう歌ったのか? 歌わんでしょう。歌えんでしょう。のり子の詩は、そういうもの。だからこそ、価値がある。キラキラと光り、若者を魅了する、サヨの武器としての価値が。

 星を見て「地上の宝石を欲しがらない」とか、さくらを観て「死こそ常態」とか、こういう分かりやすい薄っぺらさこそが、茨木のり子の持ち味なのだろう。で、寺山修司ほどは薄くないところが味噌。そんでも「ばかものよ」はキッチリと心の琴線を震わせるわけだよ。「美少女委員長」に断言されたように。