三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

学ぶということ

 大人の勉強は、本質を捉えること。でも、それが可能なのは、砂を噛むような勉強を重ねてきた「秀才」限定なのかも。

 自分の場合、スペイン語を学ぶに当たって、中学時代以来学んできた英語が「反面教師」になってる。英語は、いろんな意味でデタラメな言語。綴りと発音の乖離。フランス語の過大な影響。動詞活用の不規則さ。時制の曖昧さ。さらに、慣習表現であるイディオムを数多く知らねば実用不能の言語であること。

 それに比べれば、スペイン語がいかに分かりやすいことか。とりわけ非ネイティブ学習者にとって。でも、それが分かるのは、中学以来の、限りなく不毛な英語学習体験ゆえ。

「社会科学」「人文科学」系あれこれが、左翼思想に汚染されていたということも、キッチリ自覚しておきたい。いや、今なお汚染されているだろう。アカデミズムもマスゴミも、芸能界、スポーツ界すらも。結果、自分自身、いろんな側面において、歪んだ概念や知識を植え付けられている。それをキッチリと自覚すること。還暦を越えてなお「キュゥべえに騙されていた」てな言い訳を並べたら、単に見苦しいだけ。

 還暦だろうが61歳だろうが学び続けねばならぬ。「永遠に生きる」ごとく。だが一つありがたいのは、ネットのおかげさまで、大概の「知識」は瞬時に確認できること。「親鸞」について知りたければ、wikiれば概略は分かる。そんなことすら、ネット以前には不可能で、百科事典を常備するとか、図書館に行くとかせにゃならんかった。金銭的に時間的に多大な負担を強いられた。

汗牛充棟の書籍を渉猟して得た知識こそ本物で、ネットで検索した知識はまがいもの」と言いたがる人間は山のようにいるだろうが、無視。

 知識は知識。その真贋を見極めるための知識もまたネットで得られりゃ無問題。つか、それが可能になったからこそ、ネットは書籍を超えた。そして、書籍ネット問わずに「ちょっと調べりゃ分かる知識」はコモディティ化した。それは、学び続ける者にとっては、素晴らしいこと。

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