三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

英語、続き

 自分自身、中学高校6年間に加えて大学で2年間「英語」を教わったのだが、物の役にも立たなかった。英字新聞一つまともに読めないし、アメ公と話しても、相手が何を言っているのか、ほとんど聞き取れない。理由は簡単だ。ネイティブが言ってることが聞き取れないのは、読み書きだけやってきてて、聞く話すの訓練をほとんどやってこなかったから。英字新聞が読めないのは、その読み書きの中心が「英文学」で、今現在アメリカで使われているボキャブラリーやイディオムの多くは別の言語だから。

 日本の中学高校の英語教育というのは、読み書きの英語学、英文学であり、聞く話すの外国語訓練じゃない。で、前者については明治以来徹底的にやられてきたので、日本における英語学、英文学の研究水準は世界のトップレベルだろう。その結果、英語圏の新聞雑誌の記事から文学から学術論文に至るまでの文献は、必要に応じて日本語に翻訳されている。ゆえに、日本のパンピーは、英語力ゼロであっても、英語圏の文献を「読む」ことができる。ゆえに、逆説的に、英語の読み書き能力は向上しない。中学校高校を卒業したら「不要」なスキルだからだ。

 他方、聞く話す能力については、そもそも訓練を受けていないのだから、学校以外で学ぶ以外、獲得しようがない。

 日本人が日本語を学ぶプロセスを考えれば分かるのだが、日本語学、日本文学から入るなんてあり得ない。まずは「母語」として学んでいく。英語も同様に「準母語」として学び始めれば、血肉として身につくだろう。それを「植民地化」ウンチャラと論難するなら、そもそも英語教育なんざ禁止しろよ。ストライクは「よし」でボールは「だめ」で行けばいい。それじゃダメだ。日本人は英語を身につけて「国際人」にならなきゃいけない、という建前に対して「一番有効なやり方」がそうだってだけのこと。