三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

8月の終わりに思うこと

 戦場から生還した兵士、満州や朝鮮から身体一つで引き揚げてきた人々、地上戦を体験した沖縄。以上は別として、それ以外の「内地」の日本人が経験したのは真正の「敗戦体験」じゃなかった、とあえて書いてみる。東京大空襲も原爆も含めて、とあえて言う。前記の吉本隆明本を読んで、そう考えるに至った。

 そのカッコつきの「敗戦体験」が「平和憲法」「9条」を受け入れ、現在に至るまで支えているのだろうと確信する。本物の戦争…例えば、独ソ戦の生存者から「9条」は生まれない。絶対に。

 空襲で家を焼かれ、人もたくさん死んだ。でも、白旗を上げたら、平和と豊富な食料、そして安全保障と経済発展をゲットできた…それが日本人大半にとっての戦争と戦後。世界史的にはきわめて特殊な例外的事態。だからこそ「平和憲法」などという、お花畑的夢想を、最高規律として、ありがたく信奉してこれた。

 爆撃の後に侵攻してきた敵兵に男は殺戮され、女は強姦され、残ったすべてを奪われて、占領下の何年にも渡って、どん底の貧困で塗炭の苦しみを舐めさせられる。逆らえば強制収容所で死ぬまで重労働を強いられる…これが「それ以外」のごく普通の敗戦。

 そこから生まれるのは「9条」じゃない。まったく別のものだ。世界の国ぐにの大多数は「それ」を持っている。持たないのは日本とアメリカぐらい。

「悲惨な戦争を二度と起こさないために、平和憲法を守り抜きましょう」という言辞の空疎なること。本物の戦争を体験し、それを記憶している諸国民には毛一筋ほども響かない。「寝言は寝て言え」でおしまい。