三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

嫌な小説だった。読んでいて気がめいるとか、読後感が悪いとか、そういうだけではなく、これ読んで感動する読者が少なからずいるのだろうなあ、と思うととりわけ。
いわゆる「ネタバレ」ストーリーなので、ちょと悪意を込めて改変して紹介しよう。
食用に育てられた少年少女たちの物語。彼らは幼少時を収容施設で過ごし、長じて後は彼らだけで共同生活を送る。そしてある日、当局?に呼び出されて食肉として「提供」される。
彼らの間にはいくつかの噂がある。その一つは、あるカップルが本当に愛し合ってるという事実を当局?に納得させれば、「提供」までの期間を何年か猶予してもらえる、というもの。主人公とその恋人が、この噂の真偽を確かめるくだりが物語のクライマックスの一つ。
以下、感想だが、食用人が「提供」そのものを当然の運命として受容しているという「嘘」を意識してしまうとドラマの一つ一つがアホくさくなってしまう。これが第一の「大きな嘘」。
何らかの条件付け…ロボット三原則とか「ブレードランナー」のような…で、無理繰りに受容させられているとしよう。一般人が食用人の存在を受け入れているというのが第二の「大きな嘘」。
小説に登場するのは年配の一般人と若い食用人だけだから気づきにくいが、一般人の若者が食用人に接触し、友情なり愛情なりを感じるに至ったらどうなる? 食用人のようには条件付けされてない若者が、だよ。「提供まではせめて一般人並みの人生を送らせてやりたい」なんてヌルいこと考えずに、システムそのものを破壊しようとするかもしれない。
そもそも「食われる運命の家畜人間を産み育てる社会」など、歴史的に存在しなかった。人食いが横行した中南米インディオ帝国や中国でさえ。つまりだ、人間存在の本質に目をつぶらなければ第二の「大きな嘘」は成立しないちうこった。
こうした「大きな嘘」に気づかぬふりをして、「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」などと評するのは、えせインテリに実にありがち。一般大衆には通用しない。その点、かつてのM上H樹に似てるな。「物語」をナメくさってるという点において。