三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

開高健のセックス描写

 ふと思ったのだが、開高健の「闇三部作」の「ひたすらセックス」は、真崎・守のまんがと通じているのかもしれん。60年代から70年代の若者にとっては、結婚と生殖と無縁の、さらに売買春とも無縁の「フリーセックス」が、なんちゅうか、「旧世代との決別」であり「新時代への道」であり、さらに「解脱への門」というか、そういう「すばらしいもの」だったんだと思う。

 セックスがフリーなのが当たり前の、イマドキの若者に言ったら「は?」と首をかしげられる。いや、ちょっと違うか。真崎・守はまさにそうだが、開高は、セックスを書きつつ、開放感とも自由とも無縁で、逆に抑圧されている。

 今さら振り返るのもアホくさい「ヘア解禁」とAVブームと、さらに2次元ポルノの爆発的な発達により、「性的に疎外された若者」は存在しなくなった。18禁ギャルゲーをプレイしながらのオナニーで性的に十二分に満たされてるオタクに「吉原の高級ソープの無料お試しチケット」なんざ耳糞ほどの価値もなかろう。で、リアルのアーマチュアとのお付き合いは、「結婚→生殖」という確固たる目標があってこそで、それ以外は無用、と。

 自分世代ですら「夏の闇」のセックス三昧生活は「いかがなものか」と思ってしまう。田舎で釣りしてるほうがずっと楽しいじゃん、と。開高自身、そう感じていただろうと確信する。なのに「セックス三昧」を書かざるを得なかったとすれば、当時の「小説業界」が歪んでいたからだ。

 現在日本で、セックスが自己実現になってるのは渡部建ぐらいなもんで、「多目的トイレの多目的利用男」と嘲笑されている。それ以外の大多数にとっては、セックスは「ごく個人的な趣味」の範疇で、それを共有する相手がいればいい、いなきゃいないで別にかまわないという、エロス的関係の本来の「理想」に近いところにあるのではないか。だって「初音ミク」がいれば(その「いる」あり方は千差万別だろうが)それで十分なんだから。その幻想の一部なりとも共有してくれる相手と、結婚するも生殖するもいくらでもできる。