三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

不在の「彼ら」

 紙雑誌には存在するのだが、電子版には存在しない「彼ら」。テレビには普通に出ている。だから、「テレビと紙雑誌を観ている人達」にとっては、ごく当たり前のように存在していて、電子雑誌における「不在」はごく例外的な、奇妙な事態であろう。しかし、自分のように「テレビも紙雑誌も観ない人間」にとっては、電子雑誌における「不在」は単なる不在。自分の世界には「彼ら」は存在しない、と、それなりの納得して生きていくことが可能だ。
 多分に不穏当な例えで言ってみれば、「放送禁止用語を連発する芸人」がいたとして、彼は舞台には立てるが、テレビには出れない。彼の舞台を観ている観客にとっては、「そういうユニークな芸人がいる」という形で、彼のことを認識している。他方で、テレビでしか芸人を観ない観客(すなわちパンピー。数にすれば圧倒的多数だろう)にとっては、彼の存在それ自体を知ることが無い。だから彼の「不在」は、パンピーにとっては何の意味も無い。
 もう一つ、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という古歌に例えて言えば、「桜が咲く国に暮らす人々」(パンピー)にとっては、春に桜を観て心騒ぐのが当然のことであるが、桜のない国の人々は桜の「不在」を意識することすら無く、のどかな春を過ごしている。
 で、自分は「テレビでしか芸人を観ない観客」で「桜のない国の人々」であるから、電子雑誌に存在しない「彼ら」とは無縁に生きている。のどかな春を楽しんでいるわけだ。