三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「海辺のカフカ」

アフターダーク」をきっかけに、村上春樹の最近の小説を読んでおきたくなった。ちなみに自分は村上春樹の最初期からの読者の一人(「風の歌を聴け」を大学2年の時に雑誌で読んだ)なのだが、若くナイーブな(ダサい、鈍臭いという意味だ)年代から、自分自身の成長につれて読んできたおかげで、単に「小説を読む」以上のアレコレを感じている。その結果、「ねじまき鳥」以降の小説は読んでいなかった。
カフカ」の感想を一言で言えば、不完全なSFもしくはファンタジーと純文学(ちうか今回は教養小説)の融合。おなじみ村上春樹。SF部分をわざと未完成のまま放り出しているから、話がキチンとまとまらないまま、なんとも収まりの悪い感じを残しつつ終わる。夢から醒めるように。
自分が村上春樹の小説に対して、どうしようもなく感じるマイナスイメージは、自分自身が少年時代以来、そこそこのSF読みだったということから来ている。村上はSFのおもしろさを読者として体験し、本質を十分理解した上で、それを悪用しているように見えるのだ。完成させてナンボの物語を、意図的に破綻させるというヤリクチで。
なんで村上春樹がこのような手法を常用するか、自分なりに考えてみた。日本的ルーツ、「血と土」の不在である。日本人(あるいはアジア人)としての、大家族的血縁的なあれこれ。日本(あるいはアジア)の風土と伝統社会。そのどちらも切り捨てたところに村上春樹の世界は仮設されているからだ。それゆえに若い読者には好まれるのだろう。例えば田舎の高校から東京の大学の、それも文学部に入ろうという若者にとっては、一家全員ジャージ姿で畳の上にゴロゴロしながら「サザエさん」を観ているような団欒風景は忌むべきものであり、クラシックやジャズが流れる喫茶店での文学や芸術についてのインテレクチュアルな会話こそが目指すべき世界である。そんな心情に村上春樹はぴったりだ。
自分がハイティーンから20代だったら熱狂的な「信者」になったかもしれない。現在の自分の中にも熱狂する若いのがいる。だからそれなりにおもしろく読める。だが、その若いのを批判的に見ているおっさんこそが、現在の自分だから、ある線から先には抵抗を感じて、小説世界を楽しめない。
そのおっさんにまで至らずとも、多少なりとも人生経験を積んだ人間は、インテリジャズ喫茶的世界だけじゃ満足出来ない。何かしら手ごたえのある不条理で不可解な「リアル」を欲する。でも村上世界は今さら日本的ルーツには戻れない。そこで村上世界が取り込んだのが、SF、ファンタジー、神話、童話などの「物語」だ。物語の基本的条件は完結性なのだが、それでは村上世界の要請には応えられない。ゆえに、あらゆる物語は未完成、不完全で、破綻していることこそが要求される。結果、なんとも不可思議で収まりの悪い小説が生まれる。
村上春樹ほどクレバーで戦略性も批評家精神も持ち合わせた作家ならば、若者を対象とした教養小説を書くなどお茶の子さいさいだろう。自意識過剰な少年の成長とか、恋愛の高揚と幻滅とか、SFともファンタジーとも無縁に書けば、それなりの傑作が書けるはずだ。なのに、あえてSFファンタジーをまぶして、小説に必要以上の物語性を付加し、その物語を意図的に破綻させることによって、カッコつきの「リアリティー」を演出しようとしている。それが、おそらく若い読者には魅力的なのであろうし、自分のようなおっさんには鼻についてしょうがない。要するにそういうことなのだと思う。

海辺のカフカ〈上〉

海辺のカフカ〈上〉