三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

カルトの「魅力」

具体的には、インターネットでいまだしつこく続いている「ホロコースト否定」カルトだが。
カルトは、初心者に対し、問題の本質を簡単に分かった気にさせる。専門家や権威に対して、素人が抱いている畏敬と、その裏返しにある潜在的な懐疑性を刺激する。「専門家とされる連中は、何も分かってない。彼らは我々を騙そうとしている」と。お手軽にスリリングでセンセーショナルでエキサイティング。
専門家のほうは、誠実であればあるだけ、同様のエンターテインメントは提供できない。より退屈で平凡でつまらない「研究成果」を提示するしかない。
初心者は、門外漢にも分かる「学問上の鮮やかな逆転劇」の観客となりたい。「ホロコースト否定者」は自らがそれであるかのごとく装い、「議論」をショーアップする。
次に観客は、専門家からの同様の「鮮やかな反撃」を期待する。自分が一度は抱いた「否定者」への同感をイッキに逆転させてくれるような。その期待は、まず確実に裏切られる。
歴史学研究とは、ジグソーパズルを組み上げるように、さまざまな文献史料や証拠、証言を積み重ねて、歴史的事件の全体像に迫ろうという試みである。パズルのピースが完全に揃うことは無い。それどころか、細部に入れば入るだけ、個々のピースが矛盾することも珍しくない。
それらを何とか組み合わせて、欠落は類推や、時には想像で補い、説得力のある歴史像を構築するのが、歴史学研究者の仕事だ。
対して「否定者」は、ピースの欠落や矛盾をことさらに言い立てて、全体像そのものを否定しようとする。
否定するならば、それに代わる全体像を提示するのが当然だが、「否定者」はけして提示しない。専門家が構築した歴史像に匹敵するほどの、もう一つの歴史像を構築するなど不可能だと分かっているし、そんなものを構築する必要を感じていないからだ。
彼らの目的は、そもそも歴史学研究ではない。反ユダヤ主義もしくはネオナチズムという特定の政治的主張を世間にアピールすることである。彼らの主張は、そうした政治的立場から、政治的に行われる「否定のための否定」に他ならない。