三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

厨房短歌

牛豚も野菜も米も食材で等しかれども「いのち」はどうか

三鷹ベジタリアンでは無いし、逆に人間は動物であれ植物であれ他の「いのち」をちょうだいしなければ生きていけない因業な存在であると分かっているつもりなのだが、ふと考えてしまう。
同じ「肉」でも、いわゆる精肉はキレイに食材化されていて、野菜や穀物と同列視が難しくない。対して、丸魚はそのまんま「いきもの」だし、牛豚でもタンとかハツとか内臓系は、しっかり「いきもの」が生きるのに必要な「オルガン」であると主張している。
晩飯の食材に「肉」が必要だとして、そのために魚なり牛豚なりを殺す必要があるとしたらどうだろう? 三鷹は…今まで殺したことのある「いきもの」の最大は、釣ったアジ程度なのだが、必要とあらば鶏でも、あるいは豚でも牛でも殺せると思ってる。でも、毎日豚肉牛肉食ってるからといって、毎日殺せってのは勘弁してほしい。週イチ、いや、月イチ程度にしてほしい。で、そういう忌避感情が、いわゆる「差別」うんたらに繋がっているだろう、ということにもちゃんと向き合っているつもりなのだが。
一つだけ確信してるのは「隠しちゃダメ」ということ。アジを三枚おろしにするのを写真で紹介するのと同じように、牛豚を屠殺して「精肉」にするまでのプロセスをちゃんと紹介し、社会人の教養として共有すべきだろう。幸いにして、現在日本には「カマトト」なる言葉がある。「丸魚→カマボコ」のプロセスを知らないふりをして可愛子ぶるアホ女(現存するんか?)に由来する蔑称なのだが、同様に「牛豚→精肉」のプロセスを知らんふりするアホを馬鹿にする言い方を…今この場ででっち上げようとしたが、無理だった。すまんが誰か考えて欲しい。

うちは精肉店

うちは精肉店