三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

高橋哲哉「靖国問題」

そもそもサヨの本は読むだけ無駄なのだが、売れてるというので読んでやった。ハズレ。
論考の範囲は広く、論鋒もそれなりに鋭いが、その分サヨの限界も分かりやすく露呈されていた。「国民国家が、国のために戦って死んだ者を顕彰すること」を「是」とすれば、それだけで高橋の論は崩れ去る。ちうか、この「是」を否定するのは難しいので、高橋はさまざまに詭弁を駆使する。
高橋はまず「靖国神社=追悼施設」論を否定するために、戦死者の遺族にとっての悲しみを喜びに、不幸を幸福に変える「感情の錬金術」であるという論をなす。戦死こそが「大歓喜」であり「最高至上の名誉」とするための詐術だと。本気で言ってるなら馬鹿。論のための論なら詐欺だ。戦死者の遺族が「めでたいめでたい」と、どんちゃん騒ぎのお祭りをしたとでも思っているのだろうか? 戦場において、兵士がこぞって「大歓喜」であり「最高至上の名誉」である「戦死」をしようと我先にバンザイ突撃したとでも? 違うだろ。「私」においては「勲章なんか要らない。生きて帰って欲しかった」と痛切に悼まれた戦死者を、「公」においては名誉と栄光で顕彰するシステムが「靖国」だ。両者に何の矛盾も無い。
中国韓国がA級戦犯のみを問題視していて、分祀を「政治的決着」の落とし所としているというのは、高橋の認識が大甘。中韓にとっては、対日外交の最大の武器が「過去問題」。日本がA級で譲歩して問題が消滅するわけがない。ちうか、消滅しては困るのが中韓。次はBC級、さらに日清日露の戦死者へと、問題を拡大するのは必定。
高橋の戦後憲法絶対視は、サヨ一般というより、社民党(というより旧社会党)の限界を露呈している。政教分離戦争放棄も、アメリカ占領軍の都合で作った条項でしかない。政教分離の背景にあるのは、西欧史のキリスト教。それでもって日本の神道を縛ろうとするのは不当。日本においては、「祈り」すなわち神ながらの道であり、祈りの対象である「神」は、日本人の倫理感覚や美学に叶えば、天地でも太陽でもヘビでもキツネでも仏陀でも鬼でも何でもいい。エホバやキリストでもムハンマドでもかまわない。かくのごとく究極に自由な宗教システムなのだから、偏狭な一神教信者(無神論共産主義者も同じ)がゴチャゴチャ言うほうがおかしい。
そもそも、過去を現在の価値観で断罪しようというサヨ特有の独善がウザい。その論理に従って「靖国」を正しい追悼施設であらしめんため「排除」しなきゃいけないのは、A級戦犯に限らない。「間違った戦争」の戦死者全部だ。で、どれを「間違った」と認定するかは、論者の自由ということになる。とうの昔に死んで、祀られてるひとたちに対して、そんなことが出来るのか? 馬鹿。
以上でツッコミどころの三分の一ぐらいか。
(この項つづく)