三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「靖国問題」つづき

靖国神社は「近代日本という国民国家のために戦って死んだひと」を祀っている。民間の死者や「敵戦死者」は祭祀対象に入っていない。戦争による死者一般を考えれば「差別」してるわけだ。戊辰戦争の「賊軍」も西南戦争の「西郷どん」も祭祀対象から外されている。
他方日本人の伝統的死生観は「死ねばすべてホトケ」である。
両者の「矛盾」をついて、高橋は「A級戦犯=ホトケ」論を攻撃する。
さらに、これはサヨとしては驚くべきことだが、去年の北朝鮮工作船海上保安庁巡視船との「海戦」に言及し、もしも海上保安官に死者が出たら、国家による「追悼」対象だが、現に発生した北工作員の死者は対象外だ、と指摘する。

この論理は、「天皇の軍隊」日本軍の戦争をつねに正戦とし、その戦死者のみを顕彰した靖国の論理と瓜二つではないだろうか。

高橋の論理展開としては、この事実を指摘することにより、明治日本が韓国や台湾を併合した際の「討伐」において、「討伐」した日本兵戦死者が靖国に祀られているのに、「討伐」された「韓国暴徒」や台湾原住民は対象外であることの不条理を訴えたいらしい。
逆効果だろうが、馬鹿。このくだり読んだ読者の大多数は「韓国暴徒&台湾原住民=北工作員」と認識するよ。鎮圧→GJと。それはしかし、歴史的事実とは違うだろ。自分ごとき保守反動に指摘される恥を知りなさい。
(まだ続くぞ)
国のために死んだ人間を国が祀るのは当然のことだと、自分のような保守反動は思うのだが、サヨの考え方は違う。そもそも「国のために死ぬ」ことを否定する。否定論をおおまかに二つに分けると、
1.命より大切なものは無いから嫌
2.「国のため」が嫌
となるか。1は要するに奴隷の思想。2は煎じ詰めれば「日本」を否定することだ。「いや違う。自分は自民党&独占資本支配下の現体制を否定しているだけで、日本を否定してはいない」てな反論があるかもしれない。だったら革命に命を捨てろよ(笑)
「国」に誇りがもてないから、命をかけられるような「国」じゃないから、「国」を否定するというのは論理が逆。誇りを持てるような「国」、そのために命をかける価値のある「国」を作り上げていこう、というのが正道だろう。出来ないとは言わせない。そのための民主主義なんだから。
それと、死者を祀るということと、過去の国策にミスがあったということは、切り離して考えるべきだと思う。後世の評価によって、特定の死者を取り除けたり、いったん取り除けたのを戻したり、てな操作をすべきではない。中国人ならば、王朝が交代するごとに歴史を書き換え、陵墓を掘り返して遺体に鞭打つのかもしれないが、日本人の死者の祀り方は違う。
A級戦犯についての「死ねばすべてホトケ」というのもそうした文脈で言っていること。「敵も味方も死ねば同じ」ということではない。