三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

映画「珍品堂主人」

http://d.hatena.ne.jp/mitaka_i/20041219
↑で、あらすじだけ読んで論評していた映画をようやっと観ることができた。豊田四郎監督。1960年東宝作品。
思っていた以上に原作をうまく映像化している。珍品堂と九谷それぞれの自宅が出てきて、両者の趣味の違いを明白に示す。珍品堂家のほうは茶室と洋間の応接室が混在する和洋折衷ながら比較的趣味がいい。九谷のほうは成金趣味丸出し。洋館に骨董を飾り散らし、中庭には下品な噴水彫刻まである。おまけに家の中で射撃したりする(空気銃だと思うが)。
蘭蘭女のレズっぷりは思っていたよりもキチンと描かれていた。お気に入り女中に足を洗わせる入浴シーン(千景たんのおみ足に思わずハアハアさせられる)や、珍品堂と乳繰り合っていた女中を往復ビンタするシーンは鬼気迫るほど。でも、蘭蘭女を「九谷の妾」と設定し、ラストで珍品堂に言い寄るシーンを足してしまったため、原作キャラの不気味さは欠落している。
原作の蘭蘭女は、九谷が珍品堂に「女だと思ってはいけない」と忠告した通り、真正のレズビアンで、メンタリティーはむしろ男に近い。だから、料亭経営に関して、必然的に珍品堂と衝突する。男社会のルールとして、サル山のボスは一匹だからだ。
その蘭蘭女が、珍品堂との決定的な対立シーンで、こどものように「たんま」とやって「ごめんなさい」と頭を下げてしまうところに、このキャラクターの妙味がある。珍品堂からすれば「男」同士の闘争と腹くくっていたところ、突然相手が「女」に変じ、それもこども同士の喧嘩のように緊張をそらして逃げられてしまう。男全体を憎みつつ男社会の権力構造を巧みに利用してのし上がっていくレズビアン、というキャラが立ちまくっている。
ところが、映画では、九谷の妾としてしまったため、ありがちな「女帝」もしくは「虎の威を借る狐」的に矮小化されている。だから「たんま」のシーンが今一つ活きない。
料亭の労働争議のシーンで、高島忠夫演じる左翼学生を入れたのは映画オリジナル。これは、争議そのものを「学生らしい若気の至り」に転化し、戯画化して分かりやすくする効果を狙ったものであり、見事にはまった。だが、一時の感情に流されてストを叫び、翌日にはリーダーを裏切る愚民大衆に対するペシミズムは弱められている。その高島は、蘭蘭女お気に入りの女中との駆け落ちという行動で、間接的に珍品堂の対蘭蘭女闘争を支援しているのだから「レズビアンとしての蘭蘭女」というテーマをも戯画化している。
国立博物館に自分の燈籠が陳列されているのを見た珍品堂が、自分自身の目を信じる気持ちになり、一度は九谷に渡した白鳳仏を取り返し、「この目で見ていれば本物になる」というラストは、やっぱ納得できない。映画の世界は知らず、骨董の世界じゃ本物と偽物の違いは厳然としている。厳然としているからこそ、掘り出し物やらそれを見い出す目利きやらの裏技が存在するわけだ。その「厳然」を無視して「俺の目が本物を創造する」てなカバチを垂れるなら、それは本物でもなんでもない。トーシロを騙すリクツが乗っかった偽物でしかない。単なる偽物の10倍始末におえない。「日本映画の根本的な安っぽさ」と書いたが、当たっていると思う。
珍品堂が全国各地を歩いて、陶磁器や食材の「本物」を追求するシーンで、風景のみでブツそれ自体を映してないのが物足りない。当時の感覚からすれば「映しても客には分からんだろ」ということだったのだろう。
骨董の扱いが全体に乱暴すぎる。言うたらなんやけど、演じてる役者の教養の無さが露呈している。立ち居振る舞いの優美さでは淡島千景が一頭地を抜いている。宝塚出身だが、それ以前に「和」の素養があるのだろう。
原作を読んだ時から気になっていた「蘭蘭女」の発音は「らんらんじょ」で、直接「蘭蘭女さん」と呼びかけてる。「蘭蘭女史」と言う場合もある。桃李庵御主人さま、あらためてご教授ありがとうございました。