三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「英語と英国と英国人」

吉田健一の著作を読むのはこれが初めて。明治末年に吉田茂の長男として生まれ、小学生時代から、支那、フランス、イギリスで暮らす。帰国して暁星中学に転入し、卒業後、ケンブリッジに留学するため再び渡英。いわば「元祖帰国子女」である。
だが、その見識は深く鋭い。「英語には文法がないのに近い」と吉田は言い切る。「英語という国語」は「当の英国人にも分からない色々な複雑な問題を含んでいて、その点で他の国の言葉とは違っている」と言う。
「他の国の言葉」として具体的に挙げられているのはフランス語で、神田のアテネ・フランセに3年も通えばフランス語がマスターできるのに、英語は大学卒業まで11年やっても「分からない」ということになる、と。
これは、英語をある程度学んでから、フランス語なりドイツ語なりを学んだ人間が実感すること。その理由は、フランス語は規範的な言語であり、発音と綴りの一致から、文法規則まで「きまり」が徹底していて、それに叶うものだけが「正しいフランス語」として教授対象となるのに対して、英語は非規範的な言語であるということに尽きる。
要するに、「通じる英語」はあるが、フランス語的に「正しい英語」は無い。「通じる英語」は規範に叶っているから通じるのではなく、英米の大多数の話者が現に話している様態に近いから「通じる」。
にも関わらず、英語に「規範」を求めようとする日本人の英語研究者(要するに「無いものねだり」のひとたち)は「再びオンリイの位置について」「母音の長さの示差的機能の喪失」など、どんどん深みにはまっていく
イギリス人でも分からないことにかかずりあって、「英語が分からない」と言っていても始まらない。「英語」として構えずに「言葉」として役立てればいい、というのが吉田の主張。三鷹的に翻案すれば、コミュミケーションツールとして、徹底的に使い倒せばいい、と。で、吉田は「オンリイはアパアトにおいて、せいぜい楽しむことである」と締める。昭和30年代に既に「親父ギャグ」が存在していたことが分かる(笑)
かといって吉田は「ぺらぺら」な英会話を薦めるわけでもない。「ぺらぺら」英語の日本人に対しては、「人間が人間と話をしているのよりも、軽業師が多勢の前で何か芸当をやっているのに似た印象を受ける」と辛辣に斬って捨てる。自分が30過ぎた頃からようやっと分かり始めた「日本人英語のへんてこさ」が、自分が生まれた頃にすでに指摘しつくされていたわけだ。ネイティブが無視している「文法」にこだわる英語教師とか、「駅前留学」の「ジミーこと剛田ツヨシ」や「キャロルこと源シズカ」に感じた違和感だ。
だから、まあ、英語なんて、日本人一般にとっちゃ「必要」が生じればその「必要」の度合いに応じて簡単に出来る程度のもの。「必要」が無いのにマスターしようとすれば、その分の苦労が無駄。余力があるひとだけが修業すればいい。それが三鷹の結論であり、吉田も同意してくれることだろう。

英語と英国と英国人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

英語と英国と英国人 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)