三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「都会の幸福」

ファスト風土化する日本」への追記。
曽野綾子のエッセイで「都会の幸福」という本がある。一言で言えば「東京人の徹底的な自己肯定に基づく田舎の悪口」。ソフィスケートしたつもりで底意地の悪さが透けて見える、彼女独特の嫌味な文章で書いているから、自分の中の「田舎者」をピリピリといらだたす面白さがある。
名古屋の大学に入った曽野の息子が、町じゅう挙げての中日びいきに嫌気がさして、アンチを動機に巨人ファンになったそうだ。その後結婚してこどもが生まれ、阪神間に移住したのだが、5歳のこども(曽野にとっては孫)は、周囲が阪神ファン一色なのに、父親は阪神の応援を許してくれない。父親に与して「巨人ファン」になれば、幼稚園で孤立する。そこで彼は5歳なりの知恵を絞り、広島ファンになることにした、とのこと。そこで曽野は記す。

 私は、幼にしてこういう苦労をすることはなかなかいいものだ、と同情の色もなく見ているが、都会では普通、皆が一致して同郷の人やグループを贔屓にするなどということは考えられない。どうしてかというと、都会は郷里ではなく、人間の住む土地、現に私が住んでいる土地であるが、それ以上の忠誠心を私に要求しはしないのである。私にしたところで、今の東京都内に生まれたのだが、自分の出生の地を見ても、私の中の文化の一つの類型がその土地に発しているということは感じるが、特に懐かしいとは思わない。都会は騒音で喧しいと言う人がいるが、私の感覚では都会は比較的常に沈黙がちで、そのお喋りで住む人の心に割り込むという無礼はしないのである。

実に説得力がある。「ファスト風土」にもさまざまな問題はあるだろうが、この種のわずらわしさから、まさしく「ファスト」に自由になれるという利点は確実にある。
野球やサッカーのひいきだけじゃない。特産の食い物に対する好き嫌いから、「郷土の偉人」に対する評価まで、あらゆる局面にわたる「査問」がヨソモノに対して無自覚&無邪気(←これが最大の問題)に行われるのが田舎の怖さ。例えば(あくまで「例え」だが)、鹿児島に他の地方から移住してきた人間が「西郷隆盛キンタマ」について不用意に言及したらどうなるか? 想像するだに恐ろしい。 

都会の幸福

都会の幸福

もうひとくだり引用しておこう。

 嫁いびりは何も農村の『独占娯楽』ではない。都会にも硬直した嫁姑の関係はいくらでもあるが、やはり都会には少ないと思われるのは、嫁の体を労わらないことである。
 その家には、お金がないわけでもないにのに、歯を治す許可がお姑さんから出ないので、まだ四十代なのに歯抜けばあさんのようになっていた東京近郊の農村の奥さんを知っている。
 地方の大きな老舗の若奥さんになった人は、熱があっても横になることは許されなかった。どうしても辛くていたたまれない時には押入の中で隠れて休んだ、という嘘のような話があった。
 嫁のためのおかずは残りものだけというケースも実際に体験した人から聞かされた。皆には鯖の切り身などついても、妊娠中の嫁の分としてはない。決して貧しい家ではないのに、である。私も人並に『いつか閑を作って嫁イビリをやります』などと言っているが、こういうイビリ方だけは思いつかないだろう。仮に嫁は憎くても、生まれて来るのは、自分の血を分けた孫であろうに、と思うのである。この人は子供がお腹にいるので空腹は堪え難かった。しかたがないので、近くの実家へ走って行っては、大急ぎでがつがつかっこんで凌いでいた、という。
 こういうことを、平気で放置しておけば、農村の生活は評判が悪くなり、嫁の来手がなくなるのも当然だ、と思う。

田舎恐ろしや! このエッセイを読んだ若い女性は「農家には絶対に嫁に行くまい」と決意を固くしたことだろう。曽野がわざわざ警告してくれたおかげか、実際、農家の嫁不足は相当レベルまで深刻化し、フィリピン、タイからスリランカまで海外に伴侶を求め、それがまた新たなトラブルの種になったりもした。
「東京」からそのように見下されていた地方においては「ファスト風土化」こそが、夜明けの太陽であり、ルネッサンスであり、文明開化であっただろうことは想像に難くない。(はぁ……) いや、実際、肌身が震えんばかりの開放感をもたらしたのではないか? それこそが今現在の「実感」であれば、「ファスト風土化」批判は到底届くまい。