三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

一流と三流

水上滝太郎貝殻追放」を読んでいてふと思い出した。もう四半世紀も昔の学生時代に友人Sから聞かされた劇画論で、三流劇画の強み、ということ。まず、ビッグコミックに代表される「一流劇画」ね。これは品質が高く、広範な読者に支持されている。次に一流の亜流である「二流劇画」と、一流が俗悪として切り捨てたものをあえて追求する「三流劇画」があるが、パワーにおいても作品性においても三流劇画のほうが二流劇画より上である、という論だった。
もとつ思い出した。同じSによるカップヌードル優越論だ。当時、ノンフライ麺など「本物のラーメン」により近づけようとするカップ麺が出てきたが、Sに言わせると邪道。独特の食物へと特化したカップヌードルのほうが上である、という論。
一流が求められるのは成熟した大人の世界に限られたことなのだろう。そこでは、二流は厳しく分別され、ふるい落とされる。水上滝太郎の時代ならば歌舞伎がそうだっただろう。三流の入り込む隙は無い。明治の新劇のように、一流がヨーロッパにあって、日本には不在の世界なら、二流にも価値がある。がしかし、それは一流を知ってこそ分かる、相対的な優位に過ぎない。一流を知らない大衆相手なら、遥かヨーロッパの本物を意識し目指した模造品より、目の前の観客のほうを意識して、その趣味に積極的に迎合した別モノのほうが強いだろう。これが水上の言う「向不見の強み」である。
さらに下って、若者やミーハーのポップカルチャーにおいては、その場その場の流行こそが神であり、不易な価値観が確立する暇がない。よって一流も三流も、概念自体が存在しない。で、まんがはポップカルチャーである。Sの語った三流劇画論が、その後のまんが界においてはほとんど意味をなさなかった理由もこれで分かる。まして「三流エロ劇画」においておや、と。うむ。これで合点がいった。