三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

公私の別

別に小難しい話じゃない。簡単なこと。
もしも自分の家族がどこぞでテロリストの人質になって「**しなきゃ殺す」と脅されたら、なにがなんでも「**」すべくシャカリキがんばるのは当然のこと。極端な話「世界が滅びようが家族は救いたい」というのが人情だろう。恥ずかしくもなんとも無い。
人質の家族以外の人たちも同様の反応をすべきか? 絶対に違う。情勢を客観的に分析し行動するのが当然のこと。
前者が「私」で後者が「公」。公私の別はキチンとつけなきゃ。それが社会人の基本。
公私がゴッチャになった社会はとんでもないことになる。連行される捕虜を見て自らのうちに沸きあがった私的感情を「おかわいそうに」と漏らした女性が、公の場で「非国民」と糾弾されたり、家族の夕食の席で「ヒトラーだめぽ」と漏らした父親が、ユーゲントの息子に告発されて、ゲシュタポに連行されたり。
今現在いちばんヤバイのは、「私」の悲痛な叫びを政治的に増幅して、なし崩し的に「公」に影響させようとするひとたちの策動。公私をゴッチャにさせぬため、キチンと見極めよう、公私の別を。