三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

「わたしを離さないで」追記

その後あれこれ考えて「嫌」がさらに増大した。
この作品に感動している読者は、食用人の運命を人間一般に敷衍しているのだと思う。「遅かれ早かれ死すべき運命の人間存在」てな風に。その上で運命を受容する食用人の姿に感動を覚える。作者の狙いもドンピシャそこだろう。
「大嘘」じゃん。じぇんじぇん違うじゃん。
人間は寿命が尽きれば死ぬし、それ以前に病死や事故死することもある。殺されることもあるだろう。でも、死を予測し、それを避けるべく努力したり戦ったりすることができる。逆に自殺することさえできる。けして食用人のようには生きない。どこかの誰かさんの都合で、ある日ある時食肉として「提供」される運命など、絶対に受け入れない。
というか、人間は食用人のように生きちゃいけない。それは人間の尊厳を損なうことだから。
例えばナチのユダヤ絶滅収容所を舞台とした物語が書かれるとして「ナチの一部はユダヤ人をガス室に送るまで、できるだけ人道的に扱おうと努力しました」とか「ユダヤ人はナチをけして憎んだり恨んだりせずに、自らの運命を受容してガス室に入って行きました」てな描写があったらどうだろう? ナチスが「人道に対する罪」に問われたのと同様に断罪されるのではないか。その描写に感動する読者は「心情左翼」ならぬ「心情ナチス」ではないか、と。