三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

記憶の風化

「記憶」が個々人の主観的なものだとして、「風化」は、それが多少なりとも客観的な歴史として定着するための、必然的なプロセスなのではないか、と思う。
たとえば会津に行って「白虎隊の悲劇」を聞くとする。会津人、とりわけ旧士族にとっては断腸の思い無くして語りえない「記憶」だったはずだが、現在はほぼ完全に「風化」し、幕末維新史の一部となっている。それを今、あえて「記憶」として甦らせようとすれば、「薩長への反感」も復活させざるを得ない。旅館が「山口、鹿児島からの観光客お断り」てな看板を出さざるを得なくなるかもしれない。
沖縄戦についても、戦後半世紀で「風化」が相当レベル進行しているだろうことは想像に難くない。「ひめゆりの悲劇」の語りが「白虎隊の悲劇」と変わらぬトーン、変わらぬ観客効果となっていても不思議は無い。
もしも「風化」プロセスをあくまで否定し、生きた「記憶」として末永く伝えようとするなら、以下の2点が必要不可欠となる。
1.数々の歴史的事実の中で、その事件を特権化すること
2.事件に関連する闘争を継続すること
結果、「悲劇」についての教育は最優先事項となり、「闘争」は世代を超えて果てしなく続いていく。
だがしかし、このような永久運動が、今現在沖縄に住むひとたちにとって必要なのだろうか? 「闘争」を主目的とするひとたちが「記憶」を独占利用して、パンピーはそれに乗せられてるんじゃないの。大丈夫? と聞いておきたい。