三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

やっぱり変だよ曽野綾子

産経新聞金曜生活面の連載コラム「透明な歳月の光」。今日のタイトルは「人間社会 善悪超えた人いて当然」で、こんな内容だった。
イラクでのマーガレット・ハッサン殺害について述べ、女性やこどもは殺さないだろうという「日本的思考や世界の常識が通用しない人たちがれっきとしているのである」と書く。
そこまではいい。次に曽野は、シンガポールに住む友人に、日本からのお土産で生玉子を持っていったところ、メイドが茹でてしまった、という話を書く。生でも食える衛生的な玉子があるのは日本他少数の先進国だけで、世界の大多数の人々にとっては、火を通すのが常識だからだ。生玉子が食いたかった友人は、一瞬血圧が上昇したが、翌日には笑い話になった、と。
で、曽野は「人間社会には、善悪を超えて常に理解しがたい人々がいて当然だ、と私たちは最低限知るべきなのである」と結ぶ。
論の流れは明快である。「女こどもを殺したテロリスト」も「玉子を茹でたメイド」も、日本的思考からは理解しがたい。あるいは逆に「女こどもを殺したテロリスト」も「玉子を生で食いたがる日本人」も、世界の常識からは理解しがたい。で、「そのような人々がいて当然だと知るべきだ」と。
だが、「玉子の食い方」と「テロリストの非道」を並列して、「理解しがたい例」とまとめる感覚は、「変!」としか言いようがない。また、玉子をどう食おうがカラスの勝手であり本質的に善悪とは無関係なのに対して、テロリストは政治的宗教的確信犯として悪を行い、結果として善悪の倫理的判断を超越している。その両者を「善悪を超えた人」とひとくくりにするのは、さらに「変!!!!」。
論理は通っているが感覚が変。曽野綾子に対して以前から感じていた違和感の、主因の一つがこのへんにあるように思う。
以前の論評→http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/hondana/hondana20021016.htm