三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

安全と安心

 似てるようでいて全然違うこと。「安全」には「安全基準」があり、客観的に認定される。身の回りの、ほとんどあらゆるものに「安全基準」がある。こどものおもちゃに使われる材料・塗料の品質とか、クルマのボディの対衝突強度とか、加工食品への添加物とか。

 対して「安心」に基準はない。「安心」の反対語は「不安」だが、人間はさまざまな情況で「不安」になる。明確な理由がなくとも「不安」にかられるし、原因すら不明の「漠然とした不安」もある。

 今でも思い出すのは、2016年から17年にかけての豊洲市場開場延期問題だ。小池百合子都知事の「安全だけど安心ではない」(だから豊洲への移転は延期する)は歴史に残る名セリフだと思う。迷セリフか。まあ、どっちでもいいが。ここで重要なのは、客観的な「安全」ではなく、主観的な「安心」を優先させたこと。「専門家が安全と言っても、わしらは不安なんじゃ」という人たちの心をつかみ、選挙での得票に繋げたということだ。

「不安」な人々。「安心」を求める人々は、しばしば「安全」を脅かす。それは、今回の武漢肺炎空騒ぎの、そこかしこでも見られたこと。

「ゼロコロナでわしらを安心させてくれ。そのためにはとことん厳しい規制を打ち出してくれ。マンボウじゃ不十分。緊急事態宣言でもダメならロックダウンを。そのために経済が停滞しようが、飲食店を筆頭に企業がバタバタと倒産しようが、若者が困窮しようが関係ない。わしらの安心が最優先じゃ」

 その多くは高齢者だろう。テレビしか情報収集手段がない情報弱者で、そのテレビが視聴率稼ぎのため、日々煽り立てる「コロナの恐怖」に心底怯えきっている。現役世代に先立ってワクチンの優先接種を受けて「安心」のはずが、デルタ株には感染するかも。息ができないほど苦しくなっても「重症」と判断されなきゃ入院もままならないかも。そしてそのまま症状が急変して死ぬかも。まさに恐怖のどん底だ。

 若者や現役世代なら収入源や失業が人生の「安全」を大きく毀損すると分かっているから、経済を止められるわけにはいかない。対して高齢者の収入は老齢年金で、ロックダウンだろうが何だろうが1円も減ることはない。自分の経済的「安全」はしっかり確保した上で、「安心」をも要求しているわけだ。

 高齢者の「安心」のために、若者や現役世代の「安全」が脅かされている。これが現在日本の「今ここ」で起きていること。高齢者と「それ以外」が分断されている。そして政治は、今や全人口の3割近くを占め、投票率も高い高齢者の望む方向にしか動かせない。

「戦争は、もうとっくの昔に始まっているんだ」と後藤隊長なら言うだろう。世代間の闘争。もちろん、圧倒的に有利なのは高齢者。現役世代が払い込む年金がすなわち、彼らが受け取る老齢年金だ。完璧な搾取の構図。経済的に搾取した上で、さらに「安心」をも求めて現役世代を追い込んでいく。「戦争」というよりも一方的な虐殺に近い。