三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

回顧する

 自分にとってのPCは何よりもまず「ワープロ」だった。自分が書いた文章を「活字」にしてくれるキカイ。手書きの文字の汚さにコンプレックスを抱いていたからだ。

「活字」への憧れもあった。「印刷」するだけならガリ版があったし、ごく小部数なら「青焼き」なんてもんもあった。活字組んでの印刷は別格。「作家」とか「プロ」にのみ許される特権だ、と。

 その活字が大部分「写植」に置き換わってたというのは、出版社勤めで初めて知ったこと。その写植が「電算」になって、出版物もDTPが当たり前になって、今現在はどうなっているのだろう? 活字に憧れる人間など死に絶えてしまった、ということだけは分かってる。

 ワープロの利点はも一つあった。「速記」の代用。わずか1年半だったけど「速研」でしたからね(笑) リアルタイムで、速記より早く正確に日本語の文章を記せるテクノロジーとして、ワープロは魅力的だった。当初の「単漢字変換」は論外。「文節変換」あたりでやうやつと見えてきたかな。

 今は相当レベルで実現されている。考えるよりも書く方が早いくらいだ。音声入力よりもタッチタイピングで「書く」方が早い。話すのと書くのとでは、多分使ってる脳の回路が違う。書き言葉を脳内で話し言葉に変換して、話したものを音声入力してPCが書き言葉に再変換するんじゃ、手間かかりすぎ。脳内に生成される書き言葉をそのまんまキーボードでPCに叩き込み、かな漢字変換して文章とする方が早い。少なくとも、自分の実感はそう。

 文章を早く書く技術は、インターネット以前のパソコン通信で鍛えられた。「論争」には必須だったから。入念に推敲する暇なんてない。速攻反論せにゃアカン。でも「穴」があればすかさず突かれる。隙の無い文章を瞬時に生成する技術が必要。さらにそこに皮肉やら罵倒やらのスパイクを埋め込む技術も有効。「言葉による格闘技」なんだから。

 ホント、修業になりましたよ、PC-VANフリーボードは。「ガス室論争」のおかげで「カルト」に対する防壁もできたし、英語の読解力もついたし、良いことずくめであったな。

 プロであれアーマチュアであれ、文章を書く人間にとって、PC&インターネットは究極の福音だった。昨今の「なろう」系作家がその最先端であろう。

 他方、画家や音楽家はどうだったのだろう? 筆と紙や楽器があれば瞬時に「自己実現」できる羨ましい人たち。彼らにとっては「今やうやつと」なんじゃなかろうか。今なお、「筆と紙や楽器」をしのぐデジタルは無いだろうが、作品を広宣流布するメディアとしてのインターネットは超有用。個展を開いて美術雑誌に紹介されて、なんてアレコレをすっ飛ばして、即「超有名」になれる。それだけの力があれば確実に。