三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

性悪説と監視社会

 橘玲支那武漢肺炎対策を評価してるのが、印象的だったのだが、性悪説と考えればガテンがいく。砂の如き支那人を律するには、監視社会が有効で、その社会が将来的に「良き市民」を育てる、と。その「良き市民」が支持する政府は「良き政府」であろう、と。現にシンガポールはそうなってる。台湾もそうなりつつある。

 プロテスタンティズムが資本主義を育て、「良き市民」を生み出したとする。日本じゃ村社会が「良き村民」を生み出した。違いは、前者が性悪説で、後者が性善説。前者がグローバル・スタンダード。ならば、性悪説に基づきつつ、より緩い規範で、徹底的に国民を監視する社会が「良き市民」を生み出すのではないか。支那が今現在やっているのが、「それ」なんじゃないか、と。

 砂のような人間個々に規制をかけるのが「神」なのか「監視システム」なのか。どちらにせよ、「正しく生きる」人間には無問題。邪な人間を罰するにあたって「神」よりも「監視システム」が有効なのは明白。だったらばさ、それを支配層にまであまねく及ぼせば、支那流は、プロテスタンティズムよりも早く、効率的に「良き市民」による、市民社会を実現できる。「良き政府」の統治下において。

 かくして、支那アメリカ並みの「良き政府」を抱くことになる。この先、せいぜい100年で。だとしたら、それは言祝ぐべきこと。

 そんなことを書きつつ、自分が思い出しているのは、20年ほど前に初めて訪問したシンガポールの、動物園入り口にあった、「支那人整列システム」。入り口までの通路が物理的に次第次第に絞られていけば、支那人であっても、ちゃんとした行列を形成せざるを得なくなる。こうしたシステムで何十年か鍛えられた結果、シンガポール人は「行列ができる国民」へと変わり、シンガポールは「自由民主国家」となったのだろう、と感心したものだった。

 日本の特徴は「性善説」。グローバル・スタンダードは「性悪説」。支那における、ネットワークを駆使した監視システムによる社会実験じゃ、後者の正解が確定。日本が「鎖国」を破るには、「性悪説」に宗旨を変え、監視システムを導入すること。

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