三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

ネット時代のアート

 近代以前の社会では専ら「食うための労働」に従事する人間がほとんどだった。その中の、たぐいまれなる才能に恵まれた何人かがアーティストとなった。そのアートを支えるのは王様や貴族などのパトロン。作品はパトロンのために制作された。彫刻も絵画も。音楽も舞踊もパトロンに披露するために演奏され、上演された。文学にしても、例えば「源氏物語」や「枕草子」は、宮中のサロンに集う貴族たちを読者として書かれた。その数は最大限見積もっても数百人というところだろう。

 近代の大衆社会においては、大衆がアートの支え手となった。印刷技術により大量生産される本。大観衆を集める劇場やコンサートホール。工業生産物としてのレコードやCD。そこで登場したのが「ロット」という概念。本を1冊だけ作って売るのは効率が悪いし、それで作家は食っていけない。例えば1万部というロットを想定し、1万人の読者に売ることにより、出版業が成立し、作家にも食っていけるだけの報酬を払える。ただし、そのためには1万人に広く売れるコンテンツが必要となる。音楽もまた然り。

 大衆はパトロンというよりは消費者だ。新奇なもの、より刺激的なものを貪欲に求める。結果、アートの市場は数百倍、数千倍となり、巨大ビジネスへと成長した。ハリウッド映画がその一例だ。

 これは近代以前のアーティストから見れば「堕落」であろう。自分の作品を買ってくれるパトロン、すなわち優れた芸術の価値を正しく理解する、優れた審美眼を持った人々のために高尚な作品を作るのではなく、知性も教養もない蒙昧愚劣な大衆の受けを取るために低俗な作品を量産する。芸術の堕落以外の何物でもなかろう、と。でも、勝利したのは大衆文化だった。それがこの百何十年かのできごと。

 そしてインターネット時代の現在。大多数の人間にとって「食うための労働」は週40時間程度。残りの時間は余暇として趣味に費やす。アーティストの真似事もその一つ。小説を書くにしても、ロットを意識する必要はない。ただ書いてネットにアップすれば他人の目に触れさせることができる。実際に触れるかどうかは別問題だが。その「素人アート」が盛んに流通し、ロットで商売する「プロ」の市場を食い荒らすまでに至った。

 数億ドルの制作費をかけたハリウッド大作が無残に大コケする一方で、素人が自宅裏庭で撮った面白動画がユーチューブで何百万回も再生される。それなりのアフィリエイト収入が発生する。それが「今ここ」。

 いいじゃんそれで、が自分の結論。アーティスト専業で食っていこうなんて考えるのが、そもそもの間違い。「食うための労働」なんて軽いもんなんだから、それをサクっとこなして、アートは「遊び」でやればいい。紫式部が原稿料を貰ってたか? 清少納言が「印税で食っていこう」と考えたか? それを思えば「昔に戻った」というだけのこと。

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