三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

ピンピンコロリってのは…

 ふと思ったのだが、「生への渇望」って有用なのだろうか? 自殺志願者に「生きてた方がいいことあるよ」と言うのはアリかも。でも死病を患ってる老人に「がんばって生きろ」と言うのは、拷問と変わらないのじゃないか?

 拷問は、苦痛を与えることにより「死にたくない」という気持ちを喚起せしめ、それにより有益な情報を引き出すテクニック。現に苦痛にさいなまれてる患者に、「生きろ」と命じ、その苦痛を継続するのと同じことではないか。拷問の犠牲者は情報を吐くことにより、「楽にして」もらえるが、患者にはその選択肢はない。最後の最期まで苦しむだけ。

 も一つ、今この瞬間に東京が核攻撃を食らって、数十万人が死ぬとする。直撃で即死するのと、致死量の放射線食らって、長期間苦しんで死ぬのと、どちらが望ましいか。

 ああ、何か分かった。エウレカ。「いつかは今じゃないよ」というのは真実。死すべき存在であればこそ、そのギリギリまで生を全うするのが理想。で、その生の価値を著しく毀損する事態に直面したら、可及的速やかに死ぬのが、これもまた理想。

 それを思いっきりヌルく表現したのが「ピンピンコロリ」だ。この表現はしかし、今まで元気いっぱいで飛び回っていた蚊や蠅が、殺虫スプレー一発で「コロリ」と死んじまうような、そんな情景を想起させられる。そんな死に方を理想とするなんざ、「虫」レベル。人間ならば、人間らしく苦しみ、その苦しみの中にこそ、救いを求めて死ぬべきじゃないかね、と。十字教徒が言いそうだ。教祖の死に様がアレだし、自殺は厳禁だし。

 ああ、も一つエウレカ。「虫でいい」が有力な答え。「泥でいい」も同じ。元々は灰であり埃であった。それにたまたま命が宿った。命あるものとして、生きるのは楽しかった。それが虫であっても人であっても、生きる楽しみは変わらない。で、時が過ぎ、再び埃と灰に戻ることになった。「虫」ならば「ピンピンコロリ」。なまじ「人」だと「人生の真の意味を悟るまで苦しんで苦しんで苦しみぬき、悟れても悟れなくても死ぬ」てな選択肢が用意されている。どっちを選ぶ?ちう質問への答えとして。