三鷹食堂日記帖

飯食い酒飲み自転車をこぐおやぢの日常。MT車大好き。

本の初版部数や実売数

 初版部数や実売数という「数字」は、読者にはほとんど関係ない。いや、ほとんどの読者には関係ない、というべきか。年にせいぜい10点程度の「ミリオンセラー」と「ミリオンしか読まない人間」以外の「まっとうな読者」には無関係。それで著者を格付けたりもしない。意味ないから。

 「数字」が大きな著者が「偉い」なら、池田大作大川隆法が押しも押されぬチャンピオンだが、「ならば読もう」と思いますか? ああ、すでに読んでらっしゃるなら失礼。でも両方は読んでないよね?

 「数字」を気にするのは、流通関係者。具体的には出版社の営業、取次、書店。マーケティングの必須データだから当然だろう。で、著者のプライドとは別に、もしも実売数千部を実績とする著者の本を、何かの間違いで初版10万部刷って、さらに何かの間違いで全国津々浦々の書店に配本したりしたならば、業界全体が莫大な損害を被る。これは確実。

 10万部の本を北海道から沖縄まで届け、売れなかった9万部以上を同じく北海道から沖縄から運び戻すだけで、何台トラックが要ると思う? どんだけの人件費がかかると思う? こういうのを「死活問題」というんです。著者のプライドとはまったく無関係に。

 著者にもしも社会人一般としての常識的感覚が備わっていたら「数字」とはそういうものだと分かるはず。単なる経済的な事実であり、それ以上でも以下でもない。「作家の格」とは無関係だということが。

 「そんなの分かんない。個人情報だから絶対に秘密なんだから!」と言い張るとしたら、それはそれで仕方がないが、自分の「分かんない」に理解を示してくれるのは、「おかあさん」である担当編集者と「著者仲間」限定であり、読者から見れば「はあ? 何様ですか?」ということになる。

 だってさ、自分の著作は、しばしば「他人の数字」を扱ってるわけでしょう? たとえば映画評論だったら、制作費とか観客動員数とか興収とか。で、発表されてる「数字」に「嘘」があったら、キッチリ指摘してホントの「数字」を暴いちゃうわけでしょ。なのに自分の「数字」に限っては秘密ってのは、ねえ。

 もう一押し突っ込めは「初版や実売の数字は個人情報で公開不可」というのは「出版業界の慣習」じゃありません。せいぜい「作家村」という、ごく小さな村のナラワシでしかない。

 今回、見城発言に対しての「多くの作家」の反発においては「見城は村の掟を破っただ」的お叱りの「匂い」が濃厚で、自分なんぞは「ああやっちまったか」と思ってしまった。案の定というか、「作家以外」からは「何で隠すの?」「数字は数字でしょ」「作家って何か勘違いしてない?」てな「反発」が少なからず出ているようである。それが「村以外」すなわち「都会」の常識だからだ。

 都会のど真ん中で「村の掟」を大声でアピールしちゃうってのは、これは相当レベルでこっ恥ずかしいことなんじゃなかろうか。